筆者・画像制作・写真撮影:ススム(地方創生×生成AI )
【第一部】平安の武将・木曽義仲:山奥で育まれた英雄の原点

皆さん、日本の歴史上でひときわ異彩を放つ武将、木曽義仲(源義仲)の名をご存じでしょうか?この記事を執筆している私ススム(地方創生×生成AI/歴史観光コンテンツプロデューサー)が、木曽義仲ゆかりの地・福島宿の物語を 実際に撮影した写真も交えてご案内します。
平安時代の末期
源氏の血筋を受け継ぎながらも、幼い頃に戦乱を避けて信濃国木曽谷へと落ち延びた人物です。その背景には、彼の「乳人(めのと)」であった中原兼遠(なかはらのかねとお)の存在があります。まだ幼い義仲は、兼遠に抱きかかえられ、激しい戦の世から身を隠したのです。
義仲の父、源義賢は、源氏一族内部の争いによって志半ばで命を落としました。残された義仲は、この木曽の深き山里で、ひっそりと、しかし大切に育てられました。故郷の名を冠し、「木曽義仲」と呼ばれるようになったのは、成長してからのことです。
木曽の自然と人々が育んだ若武者

さて、木曽の大自然の中で、幼名・駒王丸と呼ばれた義仲はどのような日々を送ったのでしょうか。育ての親である中原兼遠は、駒王丸の将来を案じ、京都の天満宮からお札を受け、この地に山下手習天満宮という小さな神社を建立しました。学問の神様である天神様の御利益によって、駒王丸が健やかに成長することを願ったのでしょう。
想像してみてください。緑深き木曽谷を駆け回り、里の人々から弓術や馬術を学び、逞しく成長していく駒王丸の姿が目に浮かぶようです。「なぜ義仲はこの地と深く結びついたのでしょうか?」その答えは、幼い彼の命を守るため、木曽の人々が温かく迎え入れ、惜しみない愛情を注いだという事実に尽きます。まさに木曽の豊かな自然と、そこに生きる人々の温情が、後の英雄となる若武者を育んだと言えるでしょう。
福島の旗挙八幡宮での元服と挙兵

やがて元服の時を迎えた義仲は、福島の旗挙八幡宮でその儀式を執り行い、武将「源義仲」として新たな人生を歩み始めます。この福島の地に館を構え、武運の神である八幡宮を篤く祀ったのです。そして、治承4年(1180年)、27歳になった義仲は、平家打倒の令旨(れいじ)に応じ、ついに挙兵を決意します。
「この地で、義仲はなぜ天下を目指すことを決意したのでしょうか?」それは、木曽の地が彼にとってかけがえのない心の故郷であり、ここからこそ天下に雄飛する覚悟を固めたからに違いありません。平家討伐の兵を挙げた際、八幡宮の境内に堂々とそびえ立つ、樹齢800年ともいわれる大ケヤキの木は、まるで義仲の固い決意を今も見守っているかのようです。

挙兵後、義仲は木曽の勇猛な兵士たちを率いて、各地で目覚ましい活躍を見せ、一時、都を占領するほどの勢力となりました。その勇猛果敢な戦いぶりから、「朝日将軍(あさひしょうぐん)」という勇ましい異名で呼ばれるほどです。彼の傍らには、稀代の女武者として名高い巴御前の姿もありました。巴は、最後まで義仲に忠実に付き従った女性武将ですが、木曽には彼女にまつわる神秘的な伝説も残っています。
巴御前と「巴ヶ淵」の伝説

福島宿の外れには、「巴ヶ淵(ともえがふち)」と呼ばれる深淵があります。この淵には、「巴御前は淵に棲む龍神が姿を変えたものだ」という伝説が語り継がれており、淵のほとりには龍が住んでいたとされる洞窟や、巴御前がその美しい髪を洗ったと伝えられる岩が、今も静かに佇んでいます。まるで、木曽の人々が「義仲は龍神の加護を受けていたのだ」と語り伝えたい、そんな思いが込められているようですね。このような不思議な逸話も、義仲を深く慕う木曽の人々の強い想いが生み出した物語なのでしょう。
義仲の最期と興禅寺の廟所
しかし、栄華の時は長くは続きませんでした。都での権力争いに敗れた義仲は、寿永3年(1184年)、近江の粟津(現在の滋賀県大津市)で、31歳という若さで悲劇的な最期を遂げます。愛する木曽の地を遠く離れての死でしたが、木曽の人々は彼の死を決して忘れませんでした。

*写真:ススム撮影
鎌倉時代以降、義仲の故郷である木曽谷では、彼を弔う動きが絶えず続きました。福島宿にある興禅寺(こうぜんじ)には、義仲の御霊を祀る廟所が建立され、この寺は木曽氏の菩提寺として、代々の領主から手厚く保護されました。室町時代の末期には、木曽家第12代当主とされる山村信道(やまむら のぶみち、木曽氏とも伝わる)が、自らの館を須原から福島に移し、興禅寺を再興して、義仲を心から追悼したと言われています。その際、もともと城山に祀られていた、義仲ゆかりの御影(みかげ)観音を興禅寺に移したという記録も残っています。

興禅寺の境内には、今も義仲の墓標がひっそりと佇み、義仲の最愛の女性であった巴御前をはじめ、忠義の家臣である今井四郎兼平(いまいかねひら)や樋口次郎ら、義仲一党の供養墓も並んでいます。遠い都で命を落とした彼らですが、「この地の人々は、義仲一族を大切に思い、その霊を慰めていたのでしょう」と、地元の資料も静かに伝えています。木曽の人々の心の中で、木曽義仲は今も誇り高き郷土の英雄として、生き続けているのです。
*興禅寺は枝垂桜でも有名です。ぜひ訪れてみてください。
【第二部】中世から戦国時代へ:木曽氏の興亡と福島
木曽義仲の時代から時が流れ、中世の木曽谷は鎌倉幕府の支配下に置かれました。義仲亡き後、その遺児である義高が源頼朝によって悲劇的な最期を迎えるという出来事がありましたが、木曽谷自体はその後も、重要な土地として認識されました。南北朝時代から室町時代にかけて、木曽谷には木曾氏(木曽氏)と呼ばれる土着の武士団が現れ、この地を治めるようになります。
木曾氏は藤原姓を称し、室町時代の後期には、信濃国の有力な国人領主として勢力を拡大していったようです。険しい山々に囲まれた木曽谷ですが、信濃と美濃の国境に位置し、豊かな森林資源にも恵まれていたため、中世を通じて、地理戦略上、そして経済上の双方において重要な場所だったのです。
木曾義昌と武田信玄の同盟

戦国時代に入ると、木曽谷にも大きな動乱の波が押し寄せます。戦国大名・武田信玄が西への勢力拡大を目指し、信濃国へと侵攻してくると、木曾氏第18代当主の木曾義昌(きそ よしまさ)は、天文24年(1555年)にいち早く武田氏に臣従し、信玄の娘を正室に迎えました。この婚姻関係によって、義昌は一時的に木曽郡全域を支配下に置き、木曽福島城の城主として隆盛を極めます。
この頃、福島には木曽福島城が築かれ、木曾氏の本拠地であり、城下町としての役割を果たすようになりました。現在、福島城の具体的な遺構は、往時の「福島陣屋」跡や城山としてわずかにその面影を伝えているに過ぎませんが、戦国時代には、この山城が木曽谷支配の重要な拠点であったことは間違いありません。
鳥居峠の戦いと織田信長への転身

しかし、強大な武田家が次第に衰退の兆しを見せ始めると、情勢は大きく変化します。木曾義昌は、密かに甲斐の武田勝頼を見限り、天正10年(1582年)の初頭には、織田信長へと内通しました。この動きを察知した武田勝頼は激怒し、木曽攻めを決行しますが、義昌は織田方の援軍を得て、鳥居峠の戦いで武田軍を撃退します。木曽谷の険しい山々を舞台に繰り広げられたこの戦いは、非常に激しいものだったでしょう。結果として武田氏は滅亡し、義昌は信長から、一時的に周辺の二郡を加増するという恩賞を受ける約束を取り付けます。
豊臣・徳川の時代と山村氏の台頭

ところが、歴史の歯車は時に残酷なものです。その直後、同年3月には、本能寺の変によって織田信長が家臣の明智光秀に討たれてしまうのです。信長亡き後、勃発した天下を巡る権力闘争の中で、義昌は豊臣秀吉に従うことを選びます。秀吉は木曽谷を直轄領と定め、義昌を形式的には木曽の代官として遇しましたが、その実態は、天下人である秀吉の厳格な管理下に置かれることになります。秀吉は、木曽の豊かな森林資源に目をつけ、京都の大仏殿建立などのための木材を、木曽から大量に伐採させました。
やがて豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康が天下を掌握し、新たな時代が幕を開けます。義昌は、家康によって関東へと領地替えを命じられ、長年支配してきた木曽の地を離れることになります。文禄4年(1595年)、義昌は遠く離れた下総国(現在の千葉県)で生涯を閉じました。こうして、木曽義仲以来、「木曽殿」と呼ばれた木曾氏による木曽谷支配の時代は終わりを告げたのです。

しかし、この終わりは、新たな時代の始まりを意味していました。徳川家康は、木曽谷の戦略的な重要性を深く認識しており、江戸幕府の直轄、あるいは尾張藩の管理下に置きます。特に、関ヶ原の戦い以降は、木曽谷の統治を尾張徳川家に委ね、山村氏という一族を代官(現地の統治官)に任命しました。この山村氏こそ、木曾義昌の旧臣である山村甚兵衛を祖とする家系であり、以後、約280年もの長きにわたり、木曽谷十一宿を含む木曽全域を実質的に支配する名門となるのです。

*山村代官屋敷の中にも見所がたくさんあります。ぜひ見学してみてください。
木曽五木と山村氏の統治
山村氏は、江戸幕府の命を受け、木曽の貴重な森林資源である「木曽五木」(ヒノキ、アスナロ、サワラ、コウヤマキ、ネズコ)の伐採や流通を厳しく管理し、その見返りとして大きな権力を手にしました。彼らの家紋は「丸に一(まるにいち)」の文字を掲げていましたが、これはまさに「木曽において、山村氏が最も力を持つ存在である」ことを示すものだったと言われています。

*御料館 (旧帝室林野局木曽支局庁舎) に展示してある木曽5木
とはいえ、山村氏が圧政を敷いたわけではありません。むしろ、統治者として優れた政治を行い、領民から深く慕われたことで知られています。島崎藤村の有名な小説『夜明け前』(後述)にも、木曽代官・山村氏が名君として描かれており、地元では今なお、親しみを込めて「山村様」と呼ばれるほどです。戦国の激しい動乱を生き抜き、江戸時代の福島宿は、この山村氏の陣屋町として、新たな発展を遂げることになるのです。
【第三部】江戸時代:中山道随一の宿場町・福島宿の繁栄

江戸時代の初期、徳川家康は、全国の交通網を整備し、中山道(なかせんどう)を五街道の一つと定めました。慶長7年(1602年)頃までに、中山道は正式な幕府の街道となり、木曽谷を南北に縦貫する区間は「木曾路(きそじ)」として整備されます。この木曽路には、北の贄川宿から南の馬籠宿まで、11の宿場町が置かれました。
中山道の整備と福島宿の誕生

*現在の福島宿の様子
福島宿は、江戸・日本橋から数えて中山道37番目の宿場町にあたり、ちょうど江戸と京都の中間に位置していました。さらに、木曽路のほぼ中間点でもあったため、「なぜ福島に宿場が設けられたのでしょうか?」という問いに対する答えは明白です。福島は、地理的な要衝だったからです。江戸と京の中間地点というだけでなく、福島から西へと分岐し、信仰の霊山である御嶽山(おんたけさん)へと向かう「御嶽参詣道」の起点でもあったため、多くの旅人や巡礼者が行き交う、まさに宿場町として最適な場所だったのです。

福島宿が、公式に宿場町として開かれる以前、この地域にはどのような風景が広がっていたのでしょうか?江戸時代以前の木曽谷は、険しい山々に囲まれた、まさに「陸の孤島」のような土地でした。島崎藤村は、その有名な小説『夜明け前』の冒頭で、「木曾路はすべて山の中である」と書き出しています。まさにその言葉通り、古来よりこの地を旅する道は、断崖絶壁にへばり付く細道であったり、轟音を立てて流れる木曽川沿いの狭隘な道であったりと、非常に険しいものだったと伝えられています。
それでも、古代から「吉蘇路(きそじ)」と呼ばれる道筋が存在し、美濃国と信濃国を結ぶ重要な交通路として、細々と利用されてきました。奈良時代には既に、東山道の支路として木曽谷を抜ける経路が記録されており、中世にも、京と信濃を結ぶ脇街道としての役割を果たしていたようです。つまり、福島宿が誕生する以前から、地理的な要地であった木曽福島には、人々の往来が絶えることはなかったのです。
険しい峠道が続くにもかかわらず、「川止め」(大雨で川が増水し、旅が足止めされること)が、東海道ほどには起こらなかったため、江戸時代にはむしろ、中山道を経由して旅をする者も多かったと言われています。木曽谷は山が深いため、自然の脅威である洪水などからは、比較的守られていたのかもしれません。
天下の四大関所・福島関所の役割

江戸幕府のもと、中山道の宿場町として正式に生まれ変わった福島宿は、時を経ずして大いに賑わいを増していきます。「天下の四大関所」の一つに数えられた、有名な福島関所も、この頃に設置されました。関所は、福島宿の江戸側入口(北端)に置かれ、江戸幕府による厳重な取締りを象徴する施設でした。ここ福島関所では、他の関所と同様に「入鉄砲に出女(いりてっぽうにおんな)」、すなわち江戸へ向かう武器の持ち込みと、江戸から出ようとする大名の妻女の逃亡を厳しく取り締まりました。
幕府にとって、江戸の防衛と、大名の人質である妻子たちの管理は、最重要事項でしたから、関所の役人たちは、旅人に対して非常に細かな検査を行ったのです。例えば、女性が通行する際には、身分を証明する「女手形(おんなてがた)」という通行手形を携帯しなければなりませんでした。福島関所では、そうした手形や荷物の中身まで詳細に検査し、少しでも怪しいと判断された者がいれば、その場で足止めにしたと言われています。

*現在の福島関所跡 見学できますのでぜひ!
「この時、どのようなドラマが繰り広げられたのでしょうか?」想像してみてください。江戸へ運ばれるはずの鉄砲を、巧妙に隠し持った旅人が見つかれば、それは一大事です。あるいは、宿場の娘に変装して江戸を抜け出そうとした大名の奥方がいた…なんていう逸話も、ひょっとしたらあったかもしれません(実際に、他の関所では、女性が男装して逃亡を試みるという記録も残っています)。常に緊張感が漂う関所でしたが、だからこそ旅人たちは、「どうか無事に通れますように」と、心の中で祈りながらこの福島宿に入っていったのでしょう。
宿場町の規模と賑わい
福島関所を無事に通り抜けて宿場町に入ると、そこには旅人にとってまさに天国とも言える、活気に満ちた光景が広がっていました。天保14年(1843年)の記録によれば、当時の福島宿は、人口972人、家数158軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠14軒を数えています。木曽十一宿の行政の中心地であっただけあって、人口規模では、妻籠宿や馬籠宿(当時の人口はそれぞれ数百人程度)を大きく上回り、木曽路の宿場町の中では、中規模以上の賑わいを見せていました。もちろん、商人や職人が多く集まり、漆器取引で栄えた奈良井宿(当時の人口は2000人以上)などと比較すると、やや規模は小さくなりますが、それでも松本藩領や飯田領を除けば、「木曽谷では最大級の町」であったと言えるでしょう。

その理由の一つとして、木曽代官所(山村氏の陣屋)が置かれていたことが挙げられます。福島宿には、木曽谷全体を統括する山村代官の役宅があり、政治・経済の中心地でもありました。威厳あるお屋敷と、それに仕える家臣団、そして彼らを支える御用商人たちも住まい、常に役人の往来があったため、治安も良く、洗練された町並みが形成されていたことでしょう。
特徴的な町並みと浮世絵に描かれた風景

*木曽福島に来たら必見の「がけやづくり」 この川沿いを歩いてみてください
福島宿の町は、木曽川に沿った狭い平地に家々がひしめき合う、独特の構造をしていました。限られた土地を有効に使うため、川沿いの家屋は「がけやづくり」といって、崖に張り出すように増築された造りになっていました。背後には険しい山が迫り、目の前には滔々と流れる木曽川があるという、この土地ならではの知恵ですね。この独特の家並みと、その背後に連なる深く緑豊かな山々こそ、旅人に「ああ、木曽路にやって来たのだなあ」と、強く実感させる風景だったに違いありません。歌川広重の描いた浮世絵『木曽海道六十九次・福島宿』にも、福島関所と木曽川の断崖、そしてその川辺に軒を連ねる家々が見事に描かれており、その雄大な景観は、遠く江戸の人々をも魅了しました。

旅人たちは、福島宿でどのように過ごしたのでしょうか?江戸日本橋から数えて、およそ半分の行程を終えた地点ですから、多くの旅人は、旅の疲れを癒やすために、宿場の宿(旅籠や問屋場)で一泊していくことが多かったでしょう。福島宿には、大名や公家などの身分の高い人々が宿泊するための本陣が一軒あり、さらに、それらに次ぐ格式の旅人向けには、脇本陣も用意されていました。一般の旅人向けの旅籠も十数軒営業しており、木曽ならではの名物料理や地酒で、旅人をもてなしました。当時の名物といえば、素朴な味噌だれをつけて、炭火で香ばしく焼き上げた五平餅などが考えられます。

実際に、五平餅は木曽路の名物として江戸時代から広く知られており、旅人の疲れた体に、甘辛い味噌の風味がじんわりと染み渡ったことでしょう。「旅人の喉を潤すための酒造りも発展してきた」と伝えられるように、福島宿には江戸時代を通じて酒蔵が営まれ、銘酒「七笑」や「中乗りさん」といった地酒は、道中の楽しみとして多くの旅人に親しまれてきました。

*七笑酒造 中善酒造 どちらも有料で複数銘柄の試飲ができます。日本酒好きにはオススメ
街道を行き交う人々も実に多様でした。参勤交代の大名行列が通る際には、福島宿でも道幅いっぱいに、威勢のいい行列が連なり、大名が本陣に宿泊する際には、宿場全体が総出で歓迎しました。明治維新の直前には、皇女和宮が将軍家へ輿入れする際に中山道を通ったことでも有名です(※和宮一行は中山道を利用し、途中の奈良井宿などにも宿泊しています)。和宮に随行した幕臣の日記には、木曽路の宿々で、住民が皆で心温かくもてなしてくれた様子が詳細に記録されており、福島宿でも、美しく飾り付けられた高張提灯が、一行を迎えたことでしょう。
庶民の旅人にとっても、木曽路は険しい道のりではありましたが、「川の氾濫で足止めを食らう心配が少ない、安全な道」として人気があったようで、京へと向かう商人や、全国を巡礼する行者、木曽の檜で丁寧に作られた漆器を江戸へ運ぶ職人など、実にさまざまな人々が、この福島宿を行き交いました。
御嶽参詣道の起点としての福島宿

他方、木曽福島は、信仰の山として名高い御嶽山への登拝の玄関口でもありました。江戸時代中期以降、御嶽山への登拝が庶民の間で広く流行すると、全国から多くの信者が集まり、この福島宿で身を清め、標高3067メートルを誇る御嶽山の登山口へと向かいました。
福島宿の近郊、日義村(ひよし)からは、黒沢口という登山道が開かれており、旅人は福島宿で一泊してから、御嶽参りに出発しました。白装束に身を包んだ御嶽講の一行が、法螺貝(ほらがい)を吹き鳴らしながら福島宿を練り歩く様子は、さぞかし印象的だったでしょう。福島宿の人々もまた、そうした熱心な登拝者たちを受け入れることで、信仰の世界に触れ、旅人と土地の者との間に、温かい交流が生まれたに違いありません。
妻籠・馬籠・奈良井との比較
妻籠宿

ところで、木曽路には、福島宿以外にも、それぞれに特徴的な魅力を持つ宿場がいくつも存在します。現在、観光地として非常に人気のある妻籠宿(つまごじゅく)や馬籠宿(まごめじゅく)は、江戸時代の当時、福島宿と比べてどのような違いがあったのでしょうか?妻籠宿は、木曽路の南端近くに位置し、ここで中山道は、飯田方面へと延びる伊那街道と分岐していました。谷あいの小さな宿場でしたが、旅籠の数は非常に多く(天保年間には30軒以上)、それだけ多くの旅人が宿泊したことを物語っています。木曽路を南下してきた人々にとって、妻籠は中山道最後の宿場町であり、ここから険しい馬籠峠を越えれば、中津川で美濃国へと入る重要な地点でした。
馬籠宿

馬籠宿は、坂の町並みが非常に特徴的で、山の尾根に沿って石畳が続く、風情ある宿場でした。馬籠は、当時は木曽谷の外れ、美濃国に属していたため、藩も異なっていましたが、島崎藤村の生地としても有名で、明治維新期の激動を村人がどのように迎えたのかを描いた、不朽の名作『夜明け前』の舞台にもなっています。
奈良井宿

一方、奈良井宿は、木曽路の北端寄りに位置し、難所として知られる鳥居峠を控えた、木曽最大の宿場町でした。家数は400軒以上、人口は2000人を超え、木曽十一宿の中で最大規模を誇り、「奈良井千軒」とも歌われるほどの賑わいを見せていました。奈良井は、漆器の産地である平沢にも近く、商人たちも多く暮らしており、文化的にも華やかだったようです。
福島宿の防御構造と町割り
福島宿は、これらの宿場町と比べると、政治と警備の中心地としての性格が強かったと言えるでしょう。木曽代官所と福島関所が置かれていたため、治安は特に厳しく、宿場の北側に関所、南側の出口には、見通しを遮るように曲がりくねった「枡形(ますがた)」の街路が設けられ、防御にも配慮されていました。
実際に、福島宿の町割を見ると、南側の上ノ段地区は、他の地区よりも一段高く、塀で固められており、まるで小さな防塞都市のような趣を感じさせます。旅人にとって、福島宿は「木曽谷の役所町」であり、他の素朴な宿場と比べると、やや格式ばった、引き締まった空気を感じたかもしれません。しかし、その分、代官所のお膝元として、街道の維持管理も行き届き、安心して旅ができる場所でもあったでしょう。
「他の木曽路の宿場町との違いは何でしょうか?」
福島宿ならではの特色は、行政と警察機能を担う緊張感と、木曽路の中心地としての誇りにあったと言えます。他の宿場との交流も、公務で各宿の問屋役人が代官所に集まったり、年貢米の廻送で協力し合ったりと、福島宿がまさにハブのような役割を果たし、木曽十一宿全体をまとめ上げていたのです。

宿場の事件・飢饉と代官の対応

福島宿は、江戸時代を通じて大きな繁栄を享受しましたが、その歴史には、人々の暮らしの中で起こる様々な出来事、いわゆるドラマも存在しました。例えば、「福島宿騒動」と呼ばれる事件が、記録に残っています。これは宝暦年間(1751年~1764年)、福島宿の問屋場の運営を巡って起きた内部争いで、一部の豪商たちが代官に直接訴え出るという騒ぎに発展しました。
山村代官の裁定によって一応の解決は見たものの、宿場の団結が乱れた事件として知られています。また、天明や天保の大飢饉の際には、木曽谷でも餓死者が出るという深刻な状況となり、福島宿では、山村代官が蓄えていた米を放出することで、領民の救済に当たったという記録も残っています。「この時、どのようなドラマがあったのでしょうか?」おそらく、宿場の蔵屋敷から米俵が運び出され、飢えに苦しむ人々に分け与えられたのでしょう。
泣いて感謝する村人たちに、代官が「もう心配はいらないぞ」と優しく声をかける光景が、目に浮かぶようです。歴史の陰には、常に人々の営みと、それぞれの人生におけるドラマがあります。福島宿も例外ではなく、華やかな繁栄の裏側には、様々な人間模様が繰り広げられていたのです。
【第四部】明治維新と近代:宿場の衰退、そして「よみがえる町並み」へ
関所廃止と宿場制度の終焉
時代が明治へと移り変わると、福島宿も大きな転換期を迎えます。明治元年(1868年)、新政府は、近代化政策の一環として、全国の関所を廃止しました。天下の四大関所の一つであった福島関所も例外ではなく、明治維新とともに、その長い歴史に幕を閉じます。役人たちは去り、厳しかった通行の取り締まりもなくなりました。宿場町制度そのものも廃止され、人馬継立(駅伝制)は終わりを迎えました。
鉄砲も女性も、自由に通行できるようになった木曽路ですが、これは裏を返せば、「福島宿という宿場の役割が終わった」ことを意味していました。かつて多くの旅人で賑わった福島の町も、明治維新の直後には、しばらくの間、活気を失ってしまいます。
鉄道開通による変化と宿場の衰退

*明治43年のおん宿蔦屋の貴重な写真 その当時の風景がいきいきと映し出されている
しかし、新たな時代の波は、別の形で福島に活力を与えました。明治43年(1910年)11月25日、鉄道(中央西線)が上松駅から延伸され、木曽福島駅が開業します。翌明治44年には、中央東線も開通し、東京と名古屋の間が、鉄道によって一直線に結ばれました。これにより、福島は、中山道の宿場町から、鉄道の駅がある町へと、その姿を大きく変えることになります。
特筆すべきは、木曽福島駅ができた当初から、特急列車(現在の「しなの」号)が停車する主要駅であったことです。中央本線のルートが、険しい峠道ではなく、比較的緩やかな木曽谷を選んだため、福島は引き続き、交通の要衝であり続けたのです。

*木曽福島駅前のD51 (昭和に活躍)
とはいえ、鉄道の発達は、同時に徒歩旅行の終焉を意味しました。かつて、徒歩や駕籠で苦労しながら峠を越えていた旅人たちは、汽車に乗れば、木曽の山道をわずか数十分で通り抜けてしまいます。もはや宿場町に宿泊する必要はなくなり、福島宿の多くの旅籠や茶屋は、次々と廃業へと追い込まれていきました。
昭和2年の大火と町並み消失
さらに追い打ちをかけるように、大正時代の末期、福島宿は未曽有の大惨事に見舞われます。昭和2年(1927年)の春先、乾燥した強風に煽られた大火が発生し、福島の町は炎に包まれ、江戸時代から200年以上かけて形成されてきた美しい町並みの大部分が焼失してしまいました。先祖代々受け継がれてきた商家や旅籠も次々に焼け落ち、人々は途方に暮れたことでしょう。
現在、福島宿で江戸時代の建物が残っているのは、奇跡的に延焼を免れた上ノ段地区の、わずか100メートルほどの区画のみです。この一区画だけが、黒煙に覆われる町から辛うじて逃れ、昔日の面影を今に伝えています。そこには、千本格子の木戸や、漆喰のなまこ壁を持つ土蔵などが残り、訪れる人々は、まるで往時の宿場町にタイムスリップしたかのような感覚を味わうことができるでしょう。

*焼を免れた上ノ段地区
「昭和2年の大火でほとんどが焼失した」と聞くと、驚かれるかもしれませんが、実は現在私たちが目にする妻籠宿や馬籠宿の町並みも、多くが明治時代以降に再建されたものです(馬籠宿は明治時代に大火に見舞われ、現存する建物の多くはその後の再建によるものです)。
福島宿の場合、大火の後、昭和初期らしいレトロな街並みへと復興が進められました。木造モルタルの洋風建築や看板建築なども現れ、昭和の中頃には、映画のロケ地になりそうな、趣のある通りが形成されました。今となっては、その昭和レトロの景観すら貴重なものとなっていますが、当時の福島の人々にとっては、「江戸時代の美しい町並みを失ってしまった」という悔しさが、長く心の奥底にあったのかもしれません。
町並み保存運動と観光資源化

高度経済成長期を経て、昭和40年代になると、日本各地で、郷土の歴史遺産を見直そうという機運が高まります。木曽路でも、妻籠宿が昭和43年(1968年)に、住民主体の保存運動を開始し、日本で最初の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。これに続き、奈良井宿や馬籠宿も、町並み保存に取り組み、木曽路全体が、「江戸時代にタイムスリップできる」観光エリアとして、国内外に広く知られるようになりました。
一方、福島宿はというと
昭和初期に町が比較的近代的に再建されていたため、他の宿場のように、完全に“江戸そのまま”の景観とはなりませんでした。それでも、平成に入り、地元有志や行政によって、上ノ段地区の町並み保存が進められました。古民家を改装した料亭やカフェが営業を始め、木曾漆器の資料館や、地元の郷土料理を提供する店などもできました。
残念ながら、老舗旅館であった「肥田亭」などは近年閉店しましたが、往時を偲ばせる建物が点在し、通りには昔ながらの水場(すいば)も復元されています。高札場も、当時の2/3サイズで再現され、かつて旅人たちがここで様々な情報を目にしていた頃の雰囲気を、私たちに伝えてくれます。

*再現された高札場
上ノ段地区から少し坂を下ると、昭和の雰囲気を残す商店街と、レトロな外観の酒蔵(七笑酒造)などが並ぶ通りに出ます。そこからさらに石段を登って崖の上に出ると、眼下には木曽福島の町並みが一望でき、当時、旅人が見たであろう木曽川沿いの風景と、その背後に位置する代官所跡(現在は文化交流センターとなっています)辺りの位置関係がよく分かります。
現代に息づく史跡と興禅寺の魅力
福島宿が、他の宿場町と異なるのは、「昔の姿をそのまま残す」ということだけではなく、歴史遺産と現代の暮らしが、見事に調和している点かもしれません。例えば、興禅寺は江戸時代を代表する立派な禅寺ですが、現在も地元の檀家の人々に支えられ、日々静かな祈りの場として、その役割を果たしています。境内には、江戸時代に造営された見事な庭園「看雲庭(かんうんてい)」があり、美しい枯山水の石庭越しに、木曽の雄大な山々を望む景色は、まさに圧巻です。
木曽義仲公を祀る御霊屋(みたまや)や、歴代の山村代官の墓所なども綺麗に整備されており、現代の私たちも、静かに手を合わせ、木曽の歴史に思いを馳せることができます。「なぜ今も、この地にそのような史跡が大切に残されているのでしょうか?」それは、木曽の人々が、自らの郷土の物語を大切に語り継いできたからに違いありません。平安の昔から、昭和、平成、そして令和へと、連綿と続く福島宿の歴史遺産は、先人たちの熱い思いのリレーによって、大切に守られてきたのです。

*興禅寺の看雲庭(見学は有料) お寺の方にお声がけしてぜひご覧ください!
【第五部】現代の福島宿と文化イベント
福島関所まつり
現代の木曽福島では、往時の賑わいを偲ばせる様々なイベントも行われています。毎年10月には、「福島関所まつり」が盛大に開催され、江戸時代の代官行列や、関所の通行手形改めの様子などが再現されます。地元の人々が、当時の衣装を身につけ、山村代官や関所役人に扮して町を練り歩き、訪れた観光客は、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような、不思議な感覚を味わうといいます。

天下の奇祭・御神輿まくり

また、もう一つ有名なのが、天下の奇祭と謳われる「御神輿まくり」です。毎年7月下旬、木曽福島の水無神社の例祭で行われるこの神事は、巨大な御輿(みこし)を担ぎ手たちが「宗助!幸助!」と威勢よく叫びながら町中を練り歩き、最後にはなんと、その御輿を地面に叩きつけて、真っ二つに壊してしまうのです。普通では考えられないほど荒々しいお祭りですが、これは木曽福島に700年以上も前から伝わる由緒ある神事で、「みこしまくり(御輿廻り)」と呼ばれています。
長い年月、木曽の人々は、このような独特なお祭りを大切に守り続けてきました。奇祭と言われますが、その背景には、「神様への日頃の感謝の祈り」や、「山深い木曽の自然への畏敬の念」が深く込められているのでしょう。かつて木曽谷で暴れん坊と呼ばれた木曽義仲の魂も、この豪快な御輿の響きを、どこかで聞いているかもしれません。
最後に

いかがでしたでしょうか?木曽路・福島宿の物語、楽しんでいただけましたでしょうか。平安時代の末期に、幼い木曽義仲がこの地に逃れ、青年となって再び立ち上がったという伝説。そして江戸時代には、中山道の重要な宿場町、そして天下の要衝である関所が置かれ、多くの人々の人生が交錯した福島宿。明治時代以降は、一時静かな時を過ごしながらも、新たな時代の波に乗り、今なお、当時の面影を色濃く残す町並みを伝えています。
木曽路は「すべて山の中」
にあると言われますが、その深く険しい峠道には、千年以上にもわたる人々の営みの歴史が、確かに息づいているのです。「皆さんもいつか、木曽福島の町をゆっくりと歩きながら、平安時代と江戸時代の空気を同時に感じてみませんか?」きっと、歴史好きの方はもちろん、旅慣れた方、そして遠い国から木曽福島を訪れる旅行者の方も、この美しい山あいの宿場町で、過去と現在が不思議に交錯する、忘れられない特別な時間を過ごすことができるでしょう。
この記事は、ススム(地方創生×AI×映像制作/歴史観光コンテンツプロデューサー)が執筆しました。地域の魅力を掘り起こし、歴史と現代をつなぐコンテンツ制作を得意としています:https://www.susumu-inc.com/)
参考文献・資料
- 木曽町公式サイト「木曽義仲散策ルート」
- 長野県魅力発信ブログ「是より木曽路」シリーズ
- Centrip Japan 観光記事「中山道福島宿と木曽福島駅周辺の見どころ」
- 『木曽福島町史』木曽福島町教育委員会編
- 現地案内板
- KURAオンライン記事
- Japaaanマガジン記事
- 島崎藤村『夜明け前』第一部(青空文庫)
- 中津川市「夜明け前と中津川宿」解説
- ほのぼの日本史
- 吾妻鏡(鎌倉時代の歴史書)
- 木曽町教育委員会『木曽義仲と史跡案内』
- 木曽町公式「巴ヶ淵」伝説の紹介
- 長野県ブログ「宮ノ越宿と木曽義仲ゆかりの地」
- 中山道・木曽路・福島宿 – 長野県:歴史・観光・見所
- 西遊旅行ツアーレポート
- 中山道を歩く (18) – 福島宿・上松宿・倉本集落 – mrmaxの街道を行く
- 中山道、妻籠宿 – enigma49.sakura.ne.jp
- 奈良井宿 – 山聲表紙
- 木曽福島駅 – Wikipedia
- JR東海・木曽福島駅
- 中山道NO28. 木曽11宿で一番の賑わいは、そう”妻籠宿”です! – 4travel.jp
- 木曾氏 – Wikipedia
- 木曾義昌(きそ・よしまさ)とは? 意味や使い方 – コトバンク